この店の夜には、
ときどき”誰かの話”が混ざっている。
それは昔ここに通ってた人だったり、
今も通ってくれている誰か。
今回の話も、
そのうちのひとつ。
____
店を始めて間もない頃は、
悩みがあったり、何かモヤついている常連がいれば
閉店後にそのまま県外まで連れ出すこともあった。
学校や職場、地元といったしがらみがなく、
お互いの共通の人間関係がないからこそ、
車に乗ってしまえば少しだけ素直になれる。
時には同じタイミングで店内に居ただけの
初対面同士を連れ出すこともあったが、
初対面の緊張感も、夜の車内という限られた空間の中では
少しずつ空気がやわらかくなっていくのがわかった。
私はその微妙な空気の変化や、
どこかぎこちない会話の始まりを眺めるのが好きだった。
外へ連れ出す理由は、
日常の外にある空気を感じてもらうためでもある。
動くことで気分が変わったり、
新しい景色にわくわくしたりする。
最初は気が乗らなくても、
高速を走っているうちに少しずつ表情がゆるんでいく。
車内で他人と話したり、
普段聴かない音楽が流れたりするだけで
いつもと違う夜になる。
行先は、出発してから決めることも多かった。
けれど目的はいつも同じで、
その人からすると現実離れしたような行動をして、
少しでも笑ってもらうことだった。
_______
その夜も、そんなふうにして始まった。
車で約2時間。
ちゃんと美味しごはんを食べ、笑って、
それでもまだ顔に影が残っていた。
時計を見れば、もう日付が変わっている。
普通なら帰る時間だ。
けれど向かったのは、
帰路とは反対だった。
「えっ、こっちでしたっけ?」
「何か違うくない?」
車内での質問は、聞こえないふりをした。
そこからさらに30分。
糸島まで行くには少し遠い。
みんな寝ちゃうかもな、と思って
向かった先が、今宿の海だった。
車を降り、歩くことにすら
少し緊張しそうなほど静かな夜。
ベタに砂浜を走るなんて、
誰も想定をしていない。
だから私が最初に走った。
もちろん全力で。
その勢いにつられて、
モヤモヤ氏も走り出した。
声を出して笑いながら、転びそうになりながら。
砂浜脇のアスファルトに寝転がって星をみていたメンバーも、
こっちを見て笑っていた。
気づけば深夜の2時を過ぎていた。
帰り道、24時間やっている珈琲屋に寄った。
モーニングには早すぎる時間。
眠気と戦いながらトーストをほおばった。
プライベートで悩んでいたモヤモヤ氏も、
少し満たされたのか、2時間半に増えた帰路は眠っていた。
もし"偶然の出会い"と呼べるものがあってそれを実感し、微笑むタイミングがあるとすれば、
いろんな出来事を共有して帰る頃、
互いの心に同じ余韻が残っていた、夜明け間近のあの時間なのかもしれない。
たぶん、こうした出来事の多くは
”非現実的”に見えると思う。
でも、それくらいの突拍子のなさにこそ、
人は驚き、笑い、
少しだけ気持ちが軽くなる。
常識の外に出た時間ほど、
あとで思い出したときに
一番あたたかく残る気がする。
だからきっと、
ばかげた行動にも意味はある。
これまでにない出来事でも
笑える理由がうまれ、動けるならば
言葉より早く
その行動が心をほぐしてくれる。