今日のお客さんとの会話もあいまって、少し文章に残しておこうと思う。
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「文章が書けない人が多いのではなく、読めない人が圧倒的に多い。」
そんな言葉をSNSで見かけた。
ある本のレビューに「文章に苦手な人向け」と表紙に書かれているのに
「自分のように文章が得意な人間には物足りない」といった感想がついていたという。
あぁ「読めているつもりで、本当は読めていない」という人は意外に多いのかもしれない、そう思う出来事だった。といった内容の投稿。
何となくだが、納得するところがあった。
"読む"という行為は本来、目に入った言葉の意味を追うだけではなく
その背景にある思いや空気感を汲み取ろうする姿勢も、読むということに含まれているはず。
しかし今は、そういった行間を読み取る前に「で、結局どういうこと?」と結論を急ぐような空気感があるように感じる。時間が大切だからと。
こうした話は、本や文章に限ったことではなくて
ファッションでも映画、会話でも。
理解できたと考えていても、実際には深く触れていないまま通り過ぎてしまう、そういった事は多い。
無駄の必要性や、余白の美、わびさび。といったような表現があるように
世の中には短縮できないものの中に宿る感情や気配があるが
今はそれらが重要視されない時代なのかもしれない。
少しそれたが、私自身ここ数年とくに感じるのは
「自分で選んでいるつもりで、選ばされているような感覚」、「モノが増え選択肢が増えているようで、制限されているような感覚」がまわりに増えていること。
もちろん本人にその自覚はないと思う。
でも何かを選ぶとき真っ先に人気の度合いや
知らない誰かのレビューが理由の大半になっていたりする。
本来は自分のための選択が、いつの間にか安心を得るための選択になっている。
そして多くの場合、それなりに満足出来る結果がえられてしまう。
情報はわかりやすくまとめられ、選択肢は整えられている。
AIがすすめてくる「あなたにオススメはこちらです」という提案に常に従ってしまうこともある。
気づけばほかの可能性には目が向かなくなっている。
深く考えなくても困らないし、不自由もない。
だから、あえて踏み込む理由もなくなる。
そうして気付かないうちに、自分で選択肢を減らしている。
日々の生活の中で目にするもの、耳にすること
誰かの言葉で解説されることに慣れ「そうなんだ!」ばかりが増え
「なぜだろう?」と考える機会が少なくなっていないだろうか。
お客さんにそんな話をした際に、例えた内容でいえば
「泣ける」と話題の映画を観て、実際に涙が出たとする。
でもそれは、自分の心に本当に響いたからなのか、
ただそう感じるようにうまく導かれていただけなのか
もし、自分の過去や感情にもっと寄り添うような作品に出会えていたら
同じ涙でも、もっと深く残るものになっていたのかもしれない。
そういった小さな違和感や引っかかりをきっかけに
選ぶという行為の奥行きに気づくこと。
そして自分にとって何が響くのかが少しずつわかってくると
見える景色も少し変わってくる。
何かが広まるたびに、似たようなモノが世界に増えていく。
それはモノに限らず、言葉や情報、感情のかたちにまでおよんでいる。
スピード感が優先された結果、誰かの思いが置き去りにされていく。
気づけばそれらは、記憶に残らず、静かに消えていく。
読むことも、選ぶことも、たぶん似ている。
“なんとなく”をほんの少し立ち止まって、“本当にそうだろうか”と問い直してみる。
それだけで、見過ごしていた感覚が静かに浮かび上がり
世界の輪郭も少し違って見えてくる。
知識や情報を頼りに選ぶことももちろんいい。
でも、ときには感覚で選んでみたり、思いきって未知のものに手を伸ばしてみたり
そんな選び方に時間を使ってみるのも悪くないと思う。
自分の中にある好奇心や、小さな“好き”に気づいたとき
意識の外にあったものの豊かさにも、目が向くようになるのかもしれない。
長くなりましたが、私達のセレクトしたアイテムたちには
そんな問いや感覚、思いをいつもそっと重ねています。
時代が変われば、作る人も、提案する側の気持ちも、少しずつ移ろっていく。
だからこそ、自分たちは何を大切にしたいのか。
その軸を見失わないように。
この店の存在意義を、静かに確かめながら。